読書会のたのしみ
大学の講義などで「もし1人では読めそうもないけど読んでみたい本がある人がいたら、一緒に読む相手になりますよ」と話すようにしている。
かつて私もそんなふうにして、自分だけでは読み通せそうもない本を人と一緒に読んでみたことがある。その経験は、後に1人で読むことにも大きな手がかりを与えてくれる、とてもありがたいものだった。
そんなこともあって、誰かがそうした経験をするお手伝いができればと思っている。
大学では時々希望する人が現れて、じゃあ試しにやってみましょうかと、その人が読みたい本を一緒に読んでみている。ペースはそれぞれの都合と希望にあわせて、対面だったりオンラインだったりいろいろ。
実際にはなにをするかといえば、たいしたことではない。一緒に読む本や文章が決まったら、互いにそれを読んで、なにが書いてあったか、よく分からないところはあったかと話し合う。
すると、お互いに本当に同じ文章を読んだのだろうかと感じるようなこともあって面白い。また、これは読書会の醍醐味の一つでもある。読書では、本に記された文章と、それを読む人の脳裡にある記憶や経験が組み合わさって、ある解釈や思考や感情が生じる。人はそれぞれ異なる経験や記憶をもっているのだから、同じ本を読んだからといって、お互いの解釈や思考や感情がぴたりと重なったりはしない道理である。そこで、こうした読書会では、同じ文章から生じた互いの印象や理解のちがいを持ち寄って、実際にはその文章になにがどのように書かれていたのかを眺め直してみるわけだ。
そうすると、1人で読んでいるときには気がつかないことが、いろいろと目に入り、頭に浮かんできて、これが面白い。
1回あたりのセッションでは、2-3時間をかけて数行しか進まないこともある。先を急ぐ読み方もよいけれど、急がずじっくり読んでみるのもそれはそれでよいと思う。
また、こういう読み方をした本は、頭のなかにもよく染みこむのか、知らず識らずのうちに本の内容を記憶していたりもする。なにしろよく分からないところに出合ったら、繰り返しあの手この手でぐるぐると読むから、嫌でも覚えてしまうのだろう。私たちの体は、繰り返したことを覚えるようにできている(他にも強い感情を伴う経験は一度きりでも覚えてしまうということもある)。
こうした読書会の経験を重ねると、やがて1人でものを読むときにも、「はて、いま自分が行っている読み方の他に解釈の可能性はないかしら」という意識が生じるようになる。別の言い方をすれば、自分が無自覚に行っている解釈やものの見方の癖を自覚するきっかけを得られる。
もっとも、そのような読み方をするとよい場合と、そんなふうにせずともよい場合もあるから、時や必要に応じて選べばよい。例えば、小説に浸って楽しみたい場合には、他なる解釈の余地に思いを巡らせたりせずとも、流れに身を任せて読むというように。
いまは3つほどそうした読書会につきあっているところで、それぞれの準備をするのがまた楽しい。たぶん、仕事や義務ではないのがよいのだと思う。かたとき実利を離れてなにかを試してみることを、『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』を書いた歴史家のヨハン・ホイジンガに倣って「遊び」と呼ぶとしたら、これはそのような意味での精神の遊びでもある。
だなんて、鹿爪らしいことを言わずともよいのだけれど。
*本文中の書影は、広瀬勉『天沼 矢川澄子・室野井洋子・知久寿焼のアルバム』(港の人、2025)装幀:白井敬尚形成事務所
https://www.minatonohito.jp/book/459/

